司馬遼太郎(中)

-対話を大切にし続けた思索家-

                  市川 隼
                                   







「文春文庫」編集部が、『司馬遼太郎全仕事』として、司馬遼太郎の全作品を要領よく纏めているが、ジャンルを大きく分けると、「小説」、「随筆・評論」、「紀行」、「講演」、「対談・座談」の分野に分けられる。40年の作家生活の中で、131作の膨大な量の作品が残されているが、『街道をゆく』は43巻に上っているので、『街道をゆく』を43作品のように計算をすれば、更に作品数は増加する。販売された本の数となれば膨大で、司馬の作品の中の販売数が20番目にランクされる『最後の将軍』ですら220万部を超え、1位の『竜馬がゆく』から20番目の作品までの総数が約1億2千万部に達し、日本の人口と匹敵し、司馬が、如何に多くの読者に支持され読まれている作家であったかを示している様だ。


 司馬は、対談の名手と云われ、110名相当の専門家との対談や座談が、40冊近い本に纏められているが、三島由紀夫、大江健三郎の作家達から、湯川秀樹、西沢潤一、山村雄一の科学者、更には、経済人松下幸之助まで多岐に亘り、その道の専門家と語り合う司馬の視線が、鋭く、そして、時には優しく光る。友人だった鄭(チョン)貴文・詔文兄弟が創刊した『日本の中の朝鮮文化』の誌上で多くの専門家と共に語り合った「日本と朝鮮の文化」については、4冊の文庫版となって出版され、貴重な文献ともなっている。


 司馬がドナルド・キーンと対談したのは72年で、『日本人と日本文化』として出版されているが、平城京、銀閣寺、適塾で対談が続けられた。碩学同志、互いに遠慮があり、対談が敬遠されたようだが、相互の作品について触れないことを条件に実現された。息の合った二人は親密になり、その後、89年・90年の対談が、『世界のなかの日本』として出版されている。話題は文化論一般の多岐に亘り、キーンは司馬の博識に惚れ、司馬は、キーンの文化に対する理解力と日本語力に驚嘆した。キーンのような素晴らしい学者の「身分保証の場所」を日本に作って置くべきだと感じた司馬は、82年の7月の朝日新聞の幹部との宴会の席で、「明治時代の朝日が、夏目漱石を雇う事によって良い新聞になったように、ドナルド・キーンを雇わなければ良い新聞になりません」とキーンの入社を迫り、その影響もあったのか、92年までの10年間、キーンが朝日新聞に在籍し、優れた文章を寄稿し続けた。

 人と会うことを好まなかった井筒俊彦との対談が実現したのが92年12月であり、『20世紀末の闇と光』として纏められた。翌月の1月、司馬は陳舜臣と共に台湾に赴き、高雄のホテルに中央公論の山形真功が立っているのに驚き、井筒の急逝を知る。井筒への誄詞(るいし)として纏められたのが、『アラベスク─井筒俊彦氏を悼む』であった。司馬の『空海の風景』や『韃靼疾風録』の読者でもあり、「二十人の天才らが一人になった」と敬意を表した知の巨人井筒と、韃靼やアッラーと真如について語り合った対談を想い出しながら、「虚空に戻った巨大な通人類人のことを、茫々と思った」と、高雄のホテルで記した。

 大阪出身同志の司馬と小田実が対談したのが75・76年であったが、「国家」、「天皇制」、「日本人」について、戦中派の司馬と昭和ヒトケタ世代の小田が、夫々の戦争体験や戦後体験を軸に語り合い、評論家松本和夫によれば、両者はペンで戦う<文士>であり、己をよく知る者とのみ「志」を交わす「志士」であると評しているが、小田が司馬との距離を何時頃から感じるようになったのか、その後に書いた『30年後の「あと書き」』では、会談した頃が二人が一番近接していたと記し、「文士から国士に移行して行った事は、頂いた著作によって読み取れた。…私にとって、やはり、司馬氏は、この対談の中でのように文士司馬氏であって欲しかった」と結んでいるが、64歳の時の『韃靼疾風録』を最後の小説とした小説家司馬への、小田の哀惜の気持ちの現れであったのかも知れない。



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