司馬遼太郎(上)

 ━ 歴史を取材した小説家 ━ 

                  市川 隼
                                   






司馬遼太郎は、1923年8月に大阪で生まれ、1996年の2月に大阪で亡くなった上方を愛し続けた作家であった。大陸と日本との繋がりを思索し、歴史の表裏で生き続けた人々を、巧みに取材して小説に蘇らせた。1960年に、第42回直木賞を『梟の城』で受賞するが、産経新聞の大阪本社の文化部長だった司馬が、以下のように自らを記している。「少年のころから、万里の長城に飽くないピストン侵略を加え続けてついに砂漠の底に没し去った東洋史上のオアシス国家の運命に執拗な興味を持っている。ロマンを書くより、ロマンを行動しようと思って、外語蒙古語科の頃は本気で馬賊になろうと思っていたそうだ。仏教美意識が強く、特に原始宗教が持っていたダイナミックな空想力と、アクの強い人間探求に執着を持っている」


 司馬は、大陸に夢を馳せ、大阪外語の蒙古語科に入学するが、彼の同世代の青年達と同じように、20歳の9月に「強制」卒業となり、学徒動員させられて手にしたのが「戦車手」という通知であった。皮肉なことに、夢を描いていたはずの大陸に足を踏み入れたのが、満州戦車第1連隊兵士福田定一としてであり、米国の本土上陸を迎え撃つために駐屯させられた栃木県佐野市で、第1連隊付小隊長として敗戦を迎えた。2年間の兵隊生活が、司馬が小説を描く動機の「執拗低音」となって響いているようで、「20歳の自分への手紙として小説を書き始めた」と述べ、戦力の彼我の余りの差に唖然とし、どうしてこのような馬鹿げた戦争を起こしたのかという怒りと、もう少しましな人間が過去の歴史の中に居たはずだという想いが、歴史を遡上させた、とも語っている。懸賞小説として書いた『ペルシャの幻術師』が最初の作品で、海音寺潮五郎の目に留まり、講談社倶楽部賞を受賞するが、小説としての最後の作品は、井筒俊彦が興味を持って読みましたと評した『韃靼疾風録』で、何れも、青年司馬が想いを馳せた大陸を舞台とした小説だった。1949年の夏、後に司馬が故郷迄出掛ける事になるザビエルの上陸400年祭が京都で開催されていたが、取材の合間に入った街中の銭湯で不思議な老人と出会い、その男を主人公にした短編が『兜率天の巡礼』であり、京都太秦にある大酒神社と広隆寺の弥勒菩薩に微妙に触れながら、ザビエルより遥かに古く日本に伝わって来た景教(ネストリュス)を小説に登場させている。


 産経新聞の水野成夫が新聞小説の新しい書き手を捜して中央公論の嶋中鵬二に意見を求めた時、貴方の会社にいるじゃありませんかと司馬が推薦されたが、福田定一と司馬遼太郎が同一人物だと云う事を社長の水野は気が付いていなかったようだ。江戸とは違って、上方では肩身の狭い思いをさせられていた武士を、『大坂侍』や『上方武士道』に描いた司馬だったが、新聞小説に取り上げたのは坂本竜馬で、『竜馬がゆく』は産経新聞の看板小説となり、2千万部以上の大ベストセラーともなった。凡庸な子供が次第に成長する家庭小説のような時代小説を描きたいと社内報で述べているが、竜馬を取材する内に、彼の魅力に益々魅せられたようだ。


 司馬は、『二十一世紀に生きる君たちへ』の中で、「私は、歴史小説を書いて来た。もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している。…私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。歴史の中にもいる。…だから、二千年以上の時の中を、生きているようなものだと思っている。この楽しさはーもし君たちさえそう望むならーおすそ分けしてあげたいほどである」と子供達に語っているが、活き活きとした歴史の友人達が登場する司馬の歴史小説は、これからも、人々に読み継がれて行くに違いない。



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