山陽本線広島駅から呉線に乗り換えて呉駅から歩いて10分、大和ミュージアムに着く。日本人なら誰もが知っている帝国海軍の世界一の戦艦大和が、10分の1の模型で展示されている。入口を入ると「宇宙戦艦ヤマト」の産みの親、松本零士氏が戦艦大和の造船技術などを絶賛し、戦後の工業技術へ繋がったとするコメントが飾られている。私は失礼ながら、大和は日本の失策の最たるものとしか思えない。基準排水量6万4000㌧、主砲46㎝砲3連装3基、当時の予算で1億3800万円(1936年艦政本部試算)の時代遅れの大艦巨砲主義のシンボルだから。

 初陣は開戦翌年の17年6月のミッドウエイ海戦だが、山本五十六連合艦隊長官の指揮する旗艦として、南雲忠一中将の率いる主力航空母艦(4艦全滅)の遥か後ろのかなたで参加した。しかし、全滅を知って1発の砲を撃つことなく引き揚げ、その後も海戦らしい海戦には参加できずにいた。大和が米軍相手に主砲を最初に放ったのは、19年6月のマリアナ沖海戦(日米ほぼ互角の空母数の最後の航空戦)だが、対空用の三式弾を27発だけで主砲弾ではなかった。もはや対等の艦力ではなくなった19年10月、参加艦艇数としては史上最大のレイテ湾海戦で、最初にして最後に18インチを対艦砲撃して護衛空母1と駆逐艦2を撃沈しているが、大和の砲弾の戦果か否か不明。この海戦で同型2番艦、武蔵が魚雷20本、14発の爆弾で撃沈された。大和は沖縄への片道燃料で出撃し2時間の空襲で魚雷10発、爆弾12発以上を受けて海底に沈んだ。ある意味撃沈されるための特攻作戦だった。





不沈戦艦大和は何故日本人に人気があるのか?

 太平洋戦争時には陸海軍しかなく、泥と汗の臭いがする陸軍よりもカッコいい(と筆者も思う、苦笑)軍艦の象徴だからもてはやされるのだろう。巨大な大和は呉海軍工廠で極秘裏に建造され戦時中は国民に殆ど知らされなかった。

 大和の存在が初めて国民に知られるようになったのは、1953年に映画化された「戦艦大和」(吉田満の小説「戦艦大和ノ最期」)からである。05年の辺見じゅんの「男たちの大和」に至るまで大和を舞台とする物語・映画はあるが、他の艦のそれは一作もない。私なんぞは真珠湾からレイテ湾まで殆どの海戦を闘った歴戦の空母《ズイカク》を取り上げてもらいたい。大和は、居住性が良くて油を大量に食うくせに戦わないから他艦から「大和ホテル」とまで酷評された。その大和が何故愛されるのか? 英米に大敗したが、大艦巨砲だけは世界一だったという国民の自負心だろう。ペルー来航以来、軍艦は大艦巨砲化を競って大和型に辿り着いたから、日本人は大戦に負けた悔しさを大和で憂さ晴らししているかな。

 大和はロンドン海軍軍縮条約の失効を待って昭和12年に計画された。既に山本らは航空機優先だと主張していたにも関わらず時代を読めない首脳部が大和型3艦の建造に踏み切った。とても採算の取れた軍事費ではなかった。真珠湾空襲という「画期的戦術?」を採用しておきながら、大艦巨砲主義の時代遅れの桎梏から抜け出せなかった。大和の3番艦、信濃は戦艦として建造を始めたが、空母時代に気が付いて途中から変更したので、排水トンの割には搭載機数が少なかった。19年11月に熊野灘沖で米潜水艦の魚雷4本を受け、7時間後に横転して処女航海で沈没した。原因は防水隔壁の不足説が有力だ。大和型巨艦は完全な失敗であった。軍備は日々進歩し兵器はドンドン役立たなくなる。万里の長城も1基3千億円のイージス・アショアも直ぐに時代遅れになった(各艦の被爆数は当然異説有)。





筆者が十代の頃、旧海軍に郷愁を覚える《丸》なる月刊誌があったが、先日も本屋でまだ並んでいた。
《戦う自衛隊》の文字が躍る  驚いてみると、「コロナに戦って」だったが、《日本の誇り戦艦長門》など軍事を美化し、戦争を煽るような頁ばかりで危惧される。

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