西郷隆盛と明治維新

東京都 阿部 敏夫



西郷像



 西郷隆盛はおとこである。
大河ドラマ、
西どんに、よく表現されている。ただ明治維新の必然性を考えるとき、
問題はそう簡単ではない。



 歴史の中の必然、あるいは目的達成によって
際どい策略が全て免罪になるかは
別の視点が要求される。



 それは長州の三家老が切腹した事実を
もってしても証明できる。
途中経過での断罪である。



 明治維新150年、会津に言わせれば
戊辰150年。官軍対賊軍。
ではなく西軍対東軍。
私は山形県の出身である
山形市の隣町、
やまのべ町。
人口1万人弱の小さな城下町である。
山形市を開いた
がみよしあき(57万石)の四男、山野辺義忠の居城跡、
西館で私は育った。



 9月の「西どん」で江戸城無血開城の
先兵役を果たした山岡鉄太郎が、
この町の寺院「安国寺」に
太平山の扁額を残している。
この町には山岡鉄舟、勝海舟、髙橋泥舟、
いわゆる江戸の三舟の筆跡が残っている。
生粋の東軍なのだ。



 錦旗に対し意外にもろく徳川慶喜が上野で
謹慎して政争は会津に移る。
江戸の無血開城を評価する声は高いが、
そうだろうか。



 江戸が無事だった替りを何故会津が
引き受けなければいけなかったのか。
慶喜のリーダーシップを問題にすべきだ。
一方の勇、西郷に
まさる知識を持ちながら
仁徳において及ぶべくもなく部下の長所を
生かすことが出来なかった。優柔不断。
慶喜の弱点は、まさに、これにつきる。



 西郷が1つの困難を克服する毎に人間が
大きくなっていくのに比し誰もが認める資質を
持ちながら慶喜は、それを生かしきれなかった。



奥羽越列藩問題



 連戦連勝の新政府軍に対し会津は
松平
かたもり以下軍制を再編して態勢を整える。



 16、17歳の白虎隊、言わば少年隊である。
18~25歳の朱雀隊、36~49歳が青竜隊。
この2隊が主力部隊、
それに50歳以上の玄武隊、今ならシニア部隊。
それに婦人部隊(
じょう軍)で編成された
総力戦。会津の悲劇はここに極まる。



 会津藩に対する寛大な処分を願いでる
仙台藩、米沢藩に対し
しも
参謀しゅうぞう(長州藩士)の不行跡は
目に余る。ここに奥羽25藩、長岡藩を主力とする
越後6藩を加えて計31藩。
奥羽越列藩同盟が成立するのは
慶応4年(1868)春のことである。



 司馬遼太郎をして教育、知識、道徳において
完成されたと言わしめた会津藩。



 1ヵ月の抵抗の後、会津は落城。
23戦23勝と圧倒的な強さを誇った庄内藩も
本州最後の抵抗を終える。
江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにした庄内藩は
西郷の温情で軽微な処罰で済む。
これに感激した庄内藩は「南洲翁遺訓」を頒布する永久革命家西郷隆盛の大きさが輝いた瞬間である


 藤沢周平が海坂藩としてしばしば作品に
取り上げた庄内藩。立場は違ってもこの藩も
また薩摩と同じように凛とした気風を
今に残して爽やかである。



 明治維新、最大の功労者として視るか、
ラストサムライとしての西郷をとらえるか
によって史家の評価は異なる。
但し人間的魅力を基準にするなら時間を超えて
人々の心に生きつづける。永遠の西郷南洲。


西郷隆盛の3人の弟、3人の妹について



(編集部)

 隆盛が家督を相続したが、
実際に家内を取り仕切っていたのは
次弟の吉二郎だった。
戊辰の越後の闘いで受けた傷のため
柏崎の病院で死去。36歳だった。


 隆盛より18歳下の四男吉兵衛は
明治政府に出仕せず、
西南戦争では熊本で胸に銃弾を受け
31歳で戦死した。


 3人の妹は成人していずれも薩摩藩士と結婚。
その子孫は現在各界で活躍。


 三男つぐみちは隆盛と袖を分ち
明治政府に残り、西南戦争時は
陸軍卿代理として留守を預かった。
参議・農商務卿兼務のまま開拓使長官に
任じられ出世の階段を上り初代海軍大臣となった。
陸海軍大臣になったのは従道だけである。
元老として枢密顧問官となる内閣総理に
再三推されたが、(父方の従兄弟の大山巌も)
兄が逆賊であるとの理由で固辞した。
明治35年自宅で胃癌のため死去。
大西郷に対し小西郷と言われる。
旧目黒の自宅は明治村に重要文化財として
移築されている。


流刑地奄美大島の2度目の寓居、この住まいは3ヶ月で薩摩に召還された。
西郷33歳、愛加那23歳、子供は2人。粗末な家です


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