溝口健二は、1898年5月に東京の湯島に

生まれ、1956年8月に京都の上京区の

病院で、白血病の為、満58歳で亡くなった。

牧野省三(51歳)、川島雄三(45歳)が、

溝口より若く死亡しているが、他の名立た

る監督と比較して、60歳未満での死亡は

早すぎた死亡だった。溝口が育った浅草

玉姫町に近い、白髭橋を越えた墨田川の

向こう岸にあった、日活向島撮影所に入所

したのが22歳の1920年であり、関東大震

災で京都に移り、亡くなった時には大映の

重役監督を務めていたが、36年間の映画

人生だった。日本で産声を上げた映画産業

が羽搏く時期に入所し、2年後には監督に

昇進し、約90本の作品を手掛け、文字通り

日本の映画産業の先駆者だったが、日本

の映画監督を10年単位で眺めると、溝口と

同じ1900年以前の誕生は、衣笠貞之助、

内田吐夢であり、1900年以降は、

伊丹万作、山本嘉次郎、小津安二郎、

成瀬巳喜男、1910年以降は、黒澤明、

山本薩夫、新藤兼人、市川崑、小林正樹、

1920年以降は、鈴木清順、今村昌平、

羽仁進と続き、山田洋次や大島渚は1930

年以降の生まれで、溝口は黒澤より10年

以上も先輩であり、山田や大島とでは、

30年の隔たりがあった。



 1941年-42年に上映された『元禄忠臣

蔵(前・後編)』に美術監督として参加した

新藤兼人は、『ある映画監督―溝口健二と

日本映画―』を書き、同名のドキュメン

タリー映画を作成しているが、関係者39名

にインタービューし、日常的には温厚な

溝口が、撮影に入り込んだ時に変貌する

姿を紹介し、戯曲家にも、役者にも、

小道具・大道具の担当者にも、遠慮会釈

無く、「反射して下さい」と厳しく注文する様

を描いている。新藤は、溝口の作品には、

出来不出来が鮮明で、全ての作品が、

成功したとは言えないと記しているが、

戦前、戦中、戦後を、映画世界の中で走り

抜けて来た溝口は、興行の成功にも

腐心し、国策映画にも手を染めざるを得な

かった。長い映画創りでの蓄積が、上記の

忠臣蔵で、実際の松之大廊下を再現する

ような「溝口リアリズム」を造り上げ、ズーム

アップを用いずロングショットを使用する、

ワンシーン・ワンカットの長回しの独特の

映像美が生み出された。日本の映画監督

の中でも、先駆け的存在である溝口を、

高く評価する海外の映画監督や評論家が

多い。米国のマーティン・スコセッシは、

『雨月物語』の湖上を往く墨絵の世界を、

彼の最新作の『沈黙』に再現し、ヌーベル

ヴァーグで一世を風靡した、仏国のジャン・

リュック・ゴダールは溝口に傾倒し、影響を

与えた映画監督3名を上げろとの質問に、

「Mizoguchi」、「Mizoguchi」、「Mizoguchi」と

答え、1966年に来日した際、態々、溝口

の墓参を果たした。10年後輩の黒澤が、

『羅生門』で、ヴェネチア国際映画金獅子賞

を受賞したのが1951年だったが、溝口も

翌年から1954年に掛けて、

『西鶴一代女』、『雨月物語』、『山椒太夫』

が国際監督賞や銀獅子賞を受賞し、

『近松物語』も1955年にはカンヌ映画祭に

出品され、溝口の評価も高まり、黒澤、

小津と共に、その後の内外の映画監督に、

影響を与え続けた。



 評価された『雨月物語』でさえ、会社の要

求を受け入れて、納得する映画では無かっ

たと、自分に厳しい評価を下すのも溝口

だったが、下積みの女性を描くのが上手な

監督と評価され、女性への優しい視線を

忘れなかった。養女に出され、芸者となっ

た姉の労苦に身近で接していた事や、付き

合っていた女性に刃物で刺されたり、男の

いる女と結婚しようとし、その愛妻が精神を

病み、入院させざるを得なかった経験が、

多彩な視線を紡ぎ出した。三船敏郎も出演

した『西鶴一代女』では、田中絹代が演じる

封建時代の虚しさに翻弄される女性を

描き、『雨月物語』、『山椒太夫』、『近松物

語』では、女性の愛の奥深さや、怖さ、素晴

らしさを多面的に描き切った。新藤は、先の

著書で、「溝口は八十五本の映画を作って

いるが、たったひとりの女を描いただけであ

る」と記しているが、たった一人の女の中

に、多様な女を描いたのも、溝口だった。





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