シルクロードの
日本人伝説





中央アジア、シルクロード……といった

言葉に親しみを感じたり、心ひかれる

日本人は案外多いのではないだろうか

現代では遠く離れて、たとえば日本

からウズベキスタンへは春から秋に

週1便の直行便しかないので簡単に

旅行もできない。それでも中央アジア

の国々にロマンを感ずるのは、

日本との間に長い文化交流の歴史が

あったからだ。中央アジアの代表的な

国々はカザフスタン、トルクメニスタン、

ウズベキスタン、タジキスタン、

キルギス(スタン)で、テレビの

コメンテーターを務める加藤タキさんの

名で覚えておくと思い出しやすい。


 中央アジアと日本は、実は紀元前

から交流があった。ローマと長安を

結ぶシルクロードは大航海時代

(15世紀以降)までは欧州の文物と

中国の絹を交易する世界の大動脈

だった。ウズベキスタンのヒヴァ、

ブハラ、サマルカンド、タシケントと

いったオアシス都市はシルクロードの

中心にある拠点の交易都市だったの

だ。それらの都市に行くと古くからの

世界遺産が数多くあり、心を湧き立た

せてくれる。そのシルクロードを

通じて東端の日本にも仏教、西洋や

中央アジア、中国の文物が届き、

日本文化も彼の地に運ばれた。

ただ残念なことに大航海時代、

さらに空の時代がやってくると

シルクロードは利用されなくなり忘れ

去られていった。しかし心の中には

シルクロード文化は残っていたのだ。


 日本とシルクロードを再び結びつけ

たのは、第二次大戦後だった。

敗戦により満州で捕虜になった日本兵

のうち数万人がソ連によって

中央アジア各地へ労働力として

強制移送されたのだ。多くは道路、

鉄道、鉱山労働者などとして働かされ

た。ウズベキスタンのタシケントへ

移送された457人の日本人工兵の

捕虜はソ連側からオペラハウスの建設

を命令される。工兵としての知識、

腕を見込まれたのである。


 隊長の永田行夫氏(当時大尉、

24歳)は「仕事をさぼることもできる。

しかしこのオペラハウスが数十年も

残るとしたら日本人として恥になるよう

なものは残せない。日本人の誇りに

かけて立派な劇場を作ろう」

と呼びかけ、現地のウズベク人と

協力してビザンチン風の三階建ての

壮麗なオペラハウスを建設する。

これが後にソ連の三大オペラハウスの

一つとして数えられる「ナボイ劇場」

だった。このナボイ劇場は1966年に

タシケント大地震に見舞われる。

市内のほとんどの建物は崩壊し、

国連から救援隊もくるほどの大地震

だったが、ナボイ劇場だけはビクとも

せず凛として建ち続ける。

以来、日本人の仕事ぶりの丁寧さ、

堅実さ、真面目さなどが改めて

ウズベク人に思い起こされ、

後にナボイ劇場と日本人の仕事ぶりが

中央アジア全体に広まり

〝日本人伝説〟

となっていったのである。





抑留元日本兵も協力して建設したナボイ劇場、
左手奥に壁に経緯が説明書きされている。
1990年のタシケント地震にも被害は少なかった。



 中央アジア諸国は、1991年に

ソ連から独立し国造りに励むが、

多くの国は日本が戦後いち早く立ち

直ったことやナボイ劇場建設の

数々の語り継がれてきた秘話を

思い起こし、日本に範をとった国づくり

を行う。どの国も親日的で日本に

敬意を表してくれている。私は

約20年前にこのナボイ劇場建設の

物語をドキュメンタリーにし、TBSで

放送した。それが縁で1987年に

NPO法人日本ウズベキスタン協会を

設立し、今年で丸20年となる。

ウズベキスタンを中心に中央アジア

からの留学生も多く、今年の協会の

新年会には中央アジアの留学生

約40人を含め190人の人たちが

集まり、盛会のパーティーとなった。


 ナボイ劇場に見学に行くと、

外壁には「この建物は日本人が

建立した」という銘板があり、それを

みて当時の苦労をしのんで涙を流す

日本人旅行者が多い。

(この実話については拙著の「日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた(角川書店)」のノンフィクションを読んでいただけるとありがたい。)

(日本・ウズベキスタン協会会長)



嶌 信彦 オフィシャルサイト


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