恭子の日記 ⑬

 



幼い時の記憶は

人生を支える

 人は懐かしい香りに包まれると一瞬にしてその時に戻れる。ミルクにダージリン紅茶を入れる。お砂糖を2こ。それとフランスパンとサラダ。これが私のお気に入りの朝食。和食党の主人をお味噌汁とご飯で送り出した後、パンを焼き、紅茶を入れると私はあっという間に 幼かった頃の記憶のトンネルに入っていく。


 今はすでにない曽祖母の家。まだ開発中の長崎の山の谷間にあった。曽祖母の家には原爆で妻や子をなくした母の叔父と、親を亡くした母と母の妹たちと父が大所帯で仲良く一緒に暮らしていた。働く人たちを送り出すと曽祖母を手伝っていたまだ若い母の妹が私に毎朝パンと紅茶を入れてくれた。


 谷間に聞こえる音は山鳥の鳴き声、川のせせらぎ、そよ風の歌だけだったが、幼心に自然に抱かれる幸せを感じていた。隣のうちにはヤギがつながれのんびりと草を食んでいた。その前は川。川を渡らないと幼稚園に行けない。丸太の橋がかけられていて 幼い私にはひどく高い場所に思われたが、怖くはなかった。耳に優しく風を感じながら、川の淵の草がそよぐ様を見ながら、ゆっくりと川底を眺めながら渡った。川底には緑の藻。水は澄んで川の両岸の石垣にはドジョウもいた。幼稚園から帰ると近所の男の子に混じって(たまたま近くには年上の男の子しかいなかった)川の中を長靴で走り回った。見るもの全てが冒険の宝庫だった。



大叔父と一緒に過ごせた幸せなひととき


 大人は必ず、子供を大切に見守るし助けてくれる存在だった。だから、安心して野山を走り回った。女の子がいなかったせいでおままごとの記憶が乏しいのは少し残念だが。谷間の家、周りは山川、駆け登ったり、走り回ったり、大人になったら忍者になれると信じていた。ある時は転んで、サボテンのハリネズミになり、大泣きをしたこともあった。日の当たる縁側で、ひいおばあさんが、大丈夫、大丈夫とニコニコしながら、一本一本針を抜くあいだ、近所の男の子たちが、団子のように固まって神妙に心配そうに見ていた記憶も蘇る。


 夜になると 働く人たちが戻り、最後に高校教師だった大叔父も戻った。私は玄関まで走って出迎え、大叔父のマントとシルクハットを預かると、大叔父は私を抱き上げる。少し高いフックに大叔父のマントとハットをかける。その頃になると、飼い猫が二匹、玄関扉下に仕掛けられた小さな猫用扉から戻ると、みんなで夕ご飯になった。


 原爆で妻子をなくした大叔父は私を自分の家族の代わりに可愛がり、文字の読み書き、絵までも丁寧に教えてくれた。大叔父の膝に座るのが大好きだった。タバコの煙をドーナツのように出して見せてくれた。これはまだ神様のところにいた恭子ちゃんの座布団、これは今、次は大きくなった恭子ちゃんが座る座布団。大きくなった恭子ちゃん、見たいなあ、生きられるかなあ。とよく言った。なんのことだかわからずに甘えて座っていた大叔父の心地よい膝は私が6歳になる頃この世から去った。曽祖母に、「お母さん先立つ不幸をお許しください」が最後の挨拶だった。


 幼くても全てをよく覚えている。

 私は一杯の紅茶を飲むたび、愛する大叔父との別れの時を含め、一緒にすごした幸せな時を思い出す。クーラーも暖房もこたつさえない。テレビもない。バスも少し歩いた所にしか来ない。タクシーもない。無い無い尽くしの中に、人々の温かい心や絆だけが輝いていた。


 幼い頃、感じ取った仲のいい家族、笑顔は今でも私を支えてくれている。落ち込んでいても。仕事に行き詰まっている時も、体調を崩している時でさえ。近頃、暗いニュースを聞くたび、幼い時の周りの愛や笑顔がどれだけ大切か、どれだけ人生を支えるか、とても重く考えてしまう。


 画柳会代表

中田恭子(横浜市)








読者からいただいたメールを載せています。ご覧になってください。
編集部では皆様からいただいたメールには出来るだけお返事を
出すよう心がけています。

ご意見・ご感想はこちらまで!

ページトップヘ