琵琶湖を変貌させた総合開発

50年間の記録を撮る映像作家

大阪市北区 仲 みどり





中島省三さん

 50年がかりで琵琶湖周辺の自然や暮らしやを撮り続けてきた映像作家がいる。滋賀県大津市に住む中島省三さんだ。セスナなどで上空から、また自転車で湖岸から、あるいは日課の散歩コース、三井寺の展望台からと多様な位置とアングルで琵琶湖や周辺の生物、四季の移ろいを捉えてきた。

水は3尺(1m)流れるときれいになるとは祖母の口ぐせだったが、洗濯は川、飲み水は琵琶湖から直接汲み取る暮らしも50年前くらいまでは見られるところもあった  と語る中島さんは夏休みには守山の祖母の里へ遊びに行った。近隣の港に寄りながら蒸気船は進む。船上ではローラーで引き延ばしたノシスルメイカも売られていた。烏丸崎の切り通しを抜ける水路がヨシ原の中にあり、煙突が頭を出すだけの背の高いヨシ原の中を汽船はのどかに進んだという。水位の上がり下がりで湖面が広がったり、

逆に陸地が増えて水辺がせめぎ合い、田んぼや水田が魚の産卵場に。自然の宝庫でホタル、カメや魚を採って遊ばせてもらったが、堤防の出現で今ではヨシ原と自然の湖岸線が消え生き物も棲みにくくなった。人の営みと琵琶湖のつながりが遮断されたのだ。今となっては中島さんの作品の数々は、開発がもたらした琵琶湖の危機的状況を刻印した貴重な証言となっている。

中島さんは1966年に飛行機の操縦を習うために訪れた大津際川の飛行場から飛び立ち、地上1500mから初めて琵琶湖を撮った。「満々と水をたたえ緑のヨシ原にふちどられた南湖はこの上もなく美しかった」という。小型飛行機の操縦免許を取るという目的が手段に変わった。きっかけは琵琶湖総合開発。琵琶湖にこだわる写真を撮り始めたのは総合開発が始まる1975年以降だ。環境悪化のピークは1980年代で、一番打撃を受けたのは南湖の東側にある草津、守山、野洲などの景観だった。赤潮やアオコが発生し異臭も放った。とりわけ琵琶湖博物館のある烏丸崎は見る影もなく無残な様相に。一方、湖西沿岸部は湖からすぐ山が立つ地形のため湖岸堤が作られなかったところが多く、今も琵琶湖の原風景が比較的残っているという。

琵琶湖自身を意志のある1つの生命体と感じるという中島さんの感性に自然の息づかいが聴こえる。「琵琶湖が記録させることを望み、僕が勝手につき動かされたのではないか。そうして琵琶湖に遊ばせてもらってるのかも知れない」と。「みんなが琵琶湖を守るというが、自然に守られ豊かな心を育んでもらった側面を忘れて、人間は横柄になっている」、その言葉には忘れ去られた人間と自然の豊かな関わりへの哀惜がある。



大津湖岸の変化(1970年撮影)


同(1985年撮影)


同(2005年撮影)



 46億年の地球の歴史からすれば、人は一瞬を駆け抜ける存在。便利さと経済効率に至上の価値を置き肥大化する世情に、中島さんはマクロな視点で自然がもたらす無形財産の大切さを対置する。湖面は今きれいに見えるが、ペットボトルなどが紫外線で細分化し水中の有害物質を吸着する。それを魚が食べ人間へと巡る食物連鎖が懸念されるマイクロプラスティック問題も浮上している。

 とどまるところを知らない文明の負の遺産に抗うすべもなく流される時代、中島さんの写真はふと立ち止まって自然への畏敬や敬虔な祈りが紡ぎだす抵抗の精神を静かに語りかける。




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