ポール・ニザン

(Paul Nizan)

-青年達と同世代で

あり続ける思想家-

鎌倉市 市川 隼




著作集(晶文社)・世界文学全集25(集英社)






ポール・ニザン(角川文庫)

 同時代者(contemporary)と
同世代者(same generation)
という言葉がある。
前者は10年単位、
或は20年単位、
もう少し幅が広がるかもしれない。


後者は5年位の幅だろうか。
その感じ方も生きた時代によって
異なるのかも知れない。


同年齢で、ニザンの友人でもあった
ジャン・ポール・サルトルは、
ニザンについて、
「最後までノンと言い続けた男ニザン。
昨日、彼は我々と同時代者だった。
だが今日は、青年達の同世代者だ」
と記している。
サルトルに加えてシモーヌ・ド・ボーヴォワール、
1935年パリで開かれた反ファシズムの
「文化擁護国際作家会議」に参加した
アンドレ・ジード、アンドレ・マルロー、
ハインリッヒ・マン、ベルトルト・ブレヒト、
ボリス・パステルナークや、
成功を祈ってメッセージを送った、
ロマン・ローラン、トーマス・マン、
魯迅達はニザンの同時代者であり、
ニザンの同世代者は、
ニザンの思想に共鳴する、
名もなき青年達やこれから生を受けて
青年達になる人々なのだと、
サルトルが云いたいのだろう。


 ニザンは仏トゥールで1905年に生まれ、
仏オードリュイクで
1940年に35歳で死んだ。
社会改革を志向した思想家であり、
そして、小説家でもあった。
人は彼を、革命家とも呼んだ。
『アントワーヌ・ブロワイエ』、『トロイの木馬』、
『陰謀』の三作の小説、『アデン・アラビア』、
『番犬たち』、『古代の唯物論者たち』、
『九月のクロニクル』等の評論集が、
若者達に読まれ、
マルローが『王道』で
1930年(第一回)に受賞した
アンテラリエ賞を、
1938年に、『陰謀』で受賞した。
ニザンが生まれ育った
トゥールは農村で、
ニザンの先祖は農民であり、
共和派に抗し、
革命時処刑された人々の側に属していたが、
祖父は下級鉄道員となり、
父は、鉄道技師として昇進し、
ブルジョワジーの仲間入りを果たす。
サルトルが、『陰謀』と共に、
「最も美しく抒情的な弔辞である」
と評価しているのが
『アントワーヌ・ブロワイエ』だが、
奨学金で高等工芸学校に進み、
鉄道技師として成功し、
上級社会に入りながら
失墜し、失意の内に死んで行く
父の姿を描いている。


 ニザン自身は、11歳でアンリ四世校の
寄宿生となり、ルイ大王校へ転校し、
19歳の時、高等師範学校へ
サルトルと共に入学し、
1932年には
アグレガシオン(一般教員資格-哲学-)に
サルトルやボーヴォワールと共に合格する。
優秀な学生として評価され、
<順風満帆>な学生生活を
過ごす事になったが、
ニザンが視圏を拡大させた、
1920年代から40年代にかけて、


欧州の社会は風雲急を告げ、
ヒットラーが躍進し、ファシズムが
黒雲を棚引かせた。
細やかな光りを与えていたソビエトも、
スターリンが台頭し覇権を握り、
暗黒社会へと突き進み、
若者達に大波が押し寄せた時代でもあった。
ニザンは1926年にアデンで、
家庭教師として一年過ごし、
帰国後結婚し、共産党へ入党する。
ヒットラーの勢いは増し、
フランスへの侵攻は時間の問題だった。
女性の識字率の向上や、乳児死亡率から
ソビエトの社会の崩壊を予見した
社会学者エマニュエル・トッドは
ニザンの孫だが、
祖父のニザンの若き時代は、
ソビエトとの狭間で人々が
呻吟させられた時代だった。
仏共産党は、仏とソビエトが手を握り、
ヒットラーと抗すべきとの主張を展開し、
その中心にニザンがいたが、
1939年8月23日の
独ソ不可侵条約の締結や
9月17日のソビエトのポーランドへの侵攻は、
ニザンの夢を無残にも打ち砕き、
ニザンは離党し、
共産党と袂を分かつ事になった。


 仏は英国と連携し、9月1日に
独軍に宣戦布告を行い
第二次世界大戦が開始されるが、
このような激動期に、
ニザンやサルトル達は青年期を過ごした。
ニザンは9月に応召に応じ、
1940年5月23日、
ダンケルクに向かう途中独軍の砲撃に会い、
戦死する。


「僕は20歳だった。
それが人の一生で一番美しい年齢など
と誰にも言わせはしない」との
『アデン アラビア』の冒頭の言葉は、
幾世代の青年達の心に、
響き続けている様だ。


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