今年1月に103歳の老母が他界、結果

この12月に65年間住み慣れた大田区馬込の

自宅を兄弟5人で売却することになった。

馬込は「馬込九十九谷」という言葉があるように、

そのむかし太田道灌が築城の候補地として

逍遥したという言説が残るほど坂の多い街である。

臼田坂を馬の背骨に見立てれば海岸に

ほど近い平和島方向から見て

その左に三島由紀夫旧邸が

あり、背骨の位置に尾崎士郎/宇野千代宅が

かつてあり、我が家は背骨の右中腹にある。

 昭和26年(1951)、当時、同じ大田区内の

池上・市の倉に住んでいた私たち家族7人は馬込へ

転居した。馬込はまだ鬱蒼とした森と畑の地が多く、

転居の1年前から一番上の兄が土運び用の

リヤカーを引き、兄弟全員で2段になった畑地を

均(なら)したことを覚えている。

 亡くなった老母は歌が好きでおしゃべり闊達な主婦、

いっぽう父は寡黙で歌ひとつ唄えない

生真面目な勤め人だったが、共に踊りが大好きだった。




昭和29年クリスマスの自宅パーティ。最前列中央に筆者の姉、その後方に母、その左隣に長兄と父





自宅で大ダンスパーティー



 そこで自由人を自称する我輩もアッと驚くことには

昭和27(1952)年から、

同じ敷地に鉄筋のアパートを建てる

昭和40(1965)年までの約15年間、

毎年春とクリスマスの年2回、自宅で

大ダンスパーティを開いたのだ。そのためかどうか?

数度に渡って自宅を改造、少しでも大勢の人を

招くことができるように大広間まで作った。

その結果、多いときには80人くらいの人がやって

来たと記憶している。



 何せ今の時代とは異なり、母親たちの80%は

和装だったし、その前に「誰それ君のお母さんが

誰それ先生と抱き合って踊っていた」などということが

スキャンダルよろしく伝聞されるような時代だった。

が、両親はそんなことをものともせず、ダンスに

明け暮れたのだった。

このタウン誌「クロッシング」の主宰者M君も

我輩の高校時代からの親友で、

その大ダンスパーティの後期の歴史にひと花を

添えている。



 さてこんな個人的な話を読者の方々にとっても

大切な「クロッシング」誌で展開するのは申し訳ない

とは思いつつも、是非ご理解いただきたいのは

この時代(1950?1965)が

奇しくも日本が敗戦の痛苦から

ようやく立ち直り高度成長へ突入する前の

ベルエポック15年間にピッタリと符合するということだ。


 戦後復興に向かって人々が力を尽くした

この時代は概して人々に(忖度ならぬ)屈託がなく

エネルギーに満ちていて、私たち子供心にも快いものを

与えてくれたし、何よりも世代や暮らしぶりを

超えた時代への「共感」があった。



 「あなたのくれた帯どめの達磨の模様がチョイト気に

かかる さんざ遊んでころがして 」

と当時流行だった久保幸江の「トンコ節」を

いつも唄いながら金槌を振るっていた馴染みの大工さん。

土庭で家族に見守られながら自転車乗りの練習を

して何度も転んでいたブルマ姿の若かった母。

絶頂期だった父が酔いつぶれて

ダンスホール「白馬車」のマダムに

新橋から馬込まで送ってもらって母にさんざ叱られた

あの日??。ほろ苦くも甘い思い出はきりがない。


 またモノが十分なくて砂糖やミルクの代用品を

使ったり、肉の代わりに小魚を食べたりする生活が

続いた。1本のバナナを5等分して兄弟で分け合って

食べたこともある。朝鮮特需で焼け跡の釘やボルトを

集めて売ったり、校舎を午前と午後に分けて使う

「2部授業」、米の配給制、検便用に学校で

手渡された大つぶのハマグリの殻の美しさなどなど、

思い出せば枚挙にいとまがない。



昭和26~38年までの自宅門構え



 ノスタルジックに過去を美化することは決して

褒められたことではないけれど、

つまりは『モノのない分だけ心が動いていた』

ということは間違いなく言えるだろう。

その例に漏れず
大ダンスパーティを開いた両親の心も

動いていたに違いない。



 父が踊り母が踊ったあの日たち。万感を込めて

「馬込の家よ、さようなら」。




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